美人と風景
「はい、おにぎりセットね」
「使えんのかよ……」
おばちゃんにトレイを貰って移動する。
まさか高校がそんなにデジタル化しているとは思わなかったぜ。アナログ放送が終わるのも無理はない。世界は間違いなく次なる時代へと変貌しているのだ。ああ、頭が痛い。
「出してみるもんだな」
「悪いですね、浅葉」
二人の前には唐揚げ定食(600円)が置かれていた。
「遠慮を知らんのか?」
カードで支払えたことよりもそっちの方が気になった。
前者に関しては考えても仕方ないと思ったのもある。
「なぜ俺だけが一番安いおにぎりセット(160円)を選ばにゃならん?!」
「趣味の違いだろ」
「ジェネレーションギャップってやつでしょうか」
「はあ? なにこいつらマジきめえ。つうか死なす。必ず死なす。楽しいイベントの前日に死なす」
「あ、ちょっと!」
唐揚げをひとつずつ没収した。
「国王か、テメエは」
「うるせえブタ」咀嚼。
ほう。
うまい。
うまいぞ、これは。
こいつぁもしかすると名古屋コーチンとかいう贅肉(贅沢な肉)なのかも知れん。うおお、さすがは600円! 一気に食べてしまうのが惜しいぜホント。
「……心の貧しい野郎だ」
「冬が終わってもアリさんの労働は終わりませんね」
「…………」
黙殺した。
「……ところで、話の続きだが」
生きる時代を錯誤しているのではないかという風に唐揚げを食い千切る戸松。
俺はお供えものみたいなたくあんをしゃくしゃくした。美味なり。
「そのルルってメスは、どういうスケなんだ?」単語も場違いであった。
「よくわからん。トイレとかコーヒーとか、なんも知らねーみたいだし。あ、頭は悪い」
「ざっくりだな」
「哺乳類ですよねぇ? 火とか怖がるんじゃないですか?」
「さあな。コンロ使わせてないし」
「ガス生きてんのか」
「ったりめーだろカス」
いくら貧しくてもライフラインだけは確保している。というか、ある程度は国が守ってくれてるわけで。言葉にするとなかなか強力なバックボーンだ。政治的には知らんが。
「今は? 家に一人で?」
「ん。だって俺学校あるし。他に方法あるか?」
「いえ、そうではなくて……平気なんですか?」
「なにが」
「だから、留守を預けたわけでしょう? ルルさんが物取りである可能性は考えなかったんです?」
「あー……」一瞬、悩む。
「てか玄関壊れてるし。新手の泥棒なら昨日やってるんじゃないか? 第一、ウチに取られて困るようなブツはないしな。ははっ」
「でしょうね」
「表出ろや」
波木は口笛を吹いた。
「……だが安心は出来んぞ? 家そのものを盗まれるかもわからん」
「ねえよ! おい、面白半分に事荒立てようとすんなよ。これ以上厄介ごとが起きて堪るか」
「もう起きてるかも」
「っせえ!」
「はいはい」
ぐふぐふ笑った。実に楽しそうなので腹立たしい。
「……ま、嫌な展開を想像しておくのは悪いことじゃないだろうな。むしろ、なにもないと高を括るのは危険だ。それに事なかれ主義ってのは邪念だぞ? テメエだけの平和は夢でしかない」
「同感ですね。そもそも、浅葉は内側に篭り過ぎます。現実は空想の中で動いているわけではありませんよ? ね、もっと真実に触れなければ。ね?」
高尚っぽく語るが、顔つきを見るにただ不安にさせたいだけに違いない。
ははは、さすがはクソ共。根っから腐ってやがる。
こういうのがいるから世の中ダメになるんだ。
もっとクリーンにしようよ。
戦争反対、社内恋愛禁止。
そうだ、身近なヤツが悪を粛清せにゃならん。うむ。罰することで、未来を清めるのだ。
「地獄の右ストレートをくらいやがれ」
「……あの」
拳を握った時、後ろからお声が掛かった。
「談笑中に悪いわね……ええと……その……い、いらっしゃいませー……?」
歌うような癒し系ヴォイスだった。
「……へ、あ」
見上げる。
そこに美人がいた。

「ようこそ、いらっしゃいました……あの……こちら、サービスのグミでございます……」
「え……」
とびきりの美人だった。
目を疑うほどに。
……しかし、知らない顔じゃない。
絹のような長い黒髪、綺麗な三日月の眉に……細く、線の通った鼻筋。
日本人形が命を持った、と言われればそのまま信じてしまうかも知れない。
人類史上最高峰の玉容。
幸福なことに今年から我がクラスメイトとなられた美人は、その名を的場という。
「注文は……お済みのよう、ですね。ん……んんー……他になにかありましたら、伺いますが……?」
エプロン姿の的場がおろおろとして唇を噛む。
頭の隣にぼのぼのっぽい架空の「つ」文字が見えた。
……戸惑っているのだろうか?
いや、俺の方が戸惑っている。
「的場……さん?」
初めに口を開いたのは波木だった。
「すみません、もしかしたら人違いかも知れないので…………的場さん、ですよね?」
的場はシマリスが首を下げるような小さい動作で肯定した。
「……驚きだな」
戸松が怪訝に呟く。
まさにおかしな光景だった。
的場といえば、当校屈指のクールビューティーである。
クラスメイトと群れようとしない、孤高の存在。
だが的場本人が拒絶しているわけではなく、周囲が的場なる生徒のポテンシャルに圧倒され、近付くことに後ろめたさを抱いているのだ。
毅然とした美人の横に並べば、平凡な我々は劣等感も覚える。
それはもう自分が同じ人間であることに疑問を持つほどのレベルなのだから、実際相当なものであった。
「あの、今なら……ゴボウサラダなんか、美味しいと思……思いま、ちっ?!」
舌を噛んだらしい。
顔を隠して、かすかに震える。
「へ、平気……?」
「…………」
何も言わなかった。
異常だ、これは。
「なにを、しているんですか……?」波木がテーブルに置かれたグミをくにくにしながら問う。
「ボクはまだあなたとの付き合いが長くありませんけど……いきなりキャラ間違えてません……?」
的場はそっぽを向いて、大きく息を吐いた。
「……仕方ないのよ」
肩が落ちる。
「さっき、そこでお皿を割ってしまってね…………おばちゃんは気にしないで、なんて言ってくれたけど……そうもいかないじゃない?」言いながら、ポケットからグミを出した。
「…………どうぞ」
戸松の前に着陸。
お菓子を携帯してるのかな? サービスの意味はわかんないけど、的場からもらえる物なら消しゴムの欠片でも嬉しいもんだ。
「えっと……だから働いている、ってことですか? ここで? この、学食で……?」
「ええ」
「なんだかファミレスみたいですね」
「だって、厨房に仕事はないみたいだし……それに私、料理は得意じゃないのよ」
まったく、とでも言う風にして項垂れる。
片手で両目を覆い、一層肩を落とす。
「義理堅いヤツだぜ」
「うむ……」
頷きつつ、唾を飲む。
本人には悪いが……その時俺の胸は、人知れずきゅんきゅんしていた。
仕方ないさ。見慣れない姿ってのは、ちょっとした衝撃だからな。
普段大人しいヤツがど派手な服装で買い物してる姿、とか。クラスではイケイケなヤツが本屋で静かに品出ししてる様子、とか。ギャップが激しければ激しいほど、こちらのショックは大きくなる。
俺が今までで一番びびったのは小学生の頃、日本ガリベン協会代表取締役みたいな学級委員長ヒロシくんが誰もいなくなった学校隅のコイコイ池(教頭がコイを飼っている池)で「ふざけんな、俺にばっかり頼りやがって!」「死ね、ガキ共!」「バカは学校来るんじゃねえよ!」と本気っぽい釣竿と本気っぽいルアーで本気でコイを釣っているところを見た時だった。話を聞くにはヒロシくん、家でかなりきつい英才教育を強いられていたらしく、また親の為、内申書の為に表向き利口を貫かねばならず、結果ストレスを発散する場所がなかったという。
現代社会の闇だ。
彼は東大を目指し、私立の中学に入学したが、今どうなっているのかはわからない。
「ふぅ……」的場の吐息。
きっとバラとかジャスミンとか、そんな香りがするのだろう。
本人の手前、さすがに嗅ぎはしないが。
ったく……俺はもう動悸、息切れで永逝しそうだよ。マジで。
「……変でしょ、この格好。似合わないのよ……これは家庭的な女の子が着るものだわ」自嘲してエプロンのひらひらを摘む。一挙手一投足が俺のラブミットにストライクだぜ。
「そんなことありませんよ。ねえ、浅葉?」
「ほふっ」
いきなりのパスで躊躇する。
「ねえ?」
波木がニヤニヤしていた。
「ねえ?」
「よ……ヨキカナ」
「?」
鼻息は荒かったが、返答しただけでも頑張った方である。
「クク、顔が赤いぞ……」
戸松に言われて気が付く。
顔どころか全身が熱い。
煮込まれてるような気分だぜ。
わき汗がひどかった。汗わきパット買わないと。くさい男と思われたくない。
「ま、それはともかく……どうです? 一緒に食事でも?」
「っ!?」
波木がいつものノリでナンパしたので俺の眼球は真ん丸に開いた。
「え? いや、私は……」
「お疲れでしょう? ね、ね、ね? あ、そうだ。ボクの唐揚げあげます。ね? ほら、どうぞ! 座ってください!」
なんちゅー男だ。
こいつには空気とか身分とか、そういうのが頭にないのか? 咲いたばかりのタンポポを踏みにじるような行為だぞ。新雪を汚すつもりか、この残虐野郎。
「どうかボクの隣に、的場さんのおケツを下ろしてくださ~い」
下劣な口調だった。ブチ切れる。
「おいっ! おめえ、なんのつもりだ!?」
「仲良くしようかと」
「的場はお勤め中だろうが! わかんねえのかよ……っ!」
「えー? もーいいじゃーないですかー……」
「よくねえよ、クソハゲ! 邪魔すんな!」
ったく、自分のことしか考えてやがらねえ。
見ろ、的場が困ってるじゃねえか。
なんで困らせるんだ! 的場を困らせるんじゃねえよ!
「必死なもんだ……ククク」
戸松が悪魔っぽく腹を抱えた。
「ぐがっ!?」その脛をテーブルの下で蹴る。
「て、テメエ……」
はん、俺の爪先が鉤爪でなかったことを幸運に思え。
人をおちょくるからそうなるんだよ。遠慮して生きろや、ボケナス。
「むー……なら放課後、放課後はどうですか?」
「そこまで食事がしたいのか。見境ねえなこの痴漢」
「……いえね、最近駅前に美味しいと評判の定食屋が出来まして。行ってみたいなーと思ってたところなんですよ~」
「わかんねえ男だな、コラ」胸倉を掴む。
「おおう……浅葉、ウェイト、ウェイトっ」このまま階段から突き落としてくれるわ。
「…………」
戦火の中で、荒地にきらめく一輪の花的場は人差し指を唇に当てた。
「定食……ね」
あ、揺らいでる。
どうしよう。和食好きなんだ、この美人。
「カツがお勧めだそうです」
「……へえ」
口をぱくぱくと開閉して、考える風な目の動き。
あかんで。誘惑に負けたらあかん。的場、マジに食べたいならお友達……がいるかは知らんけど、家族と行けばいい。波木はダメだ。そいつはクズだ。クズと付き合っちゃいけない。病気になるぞ。なんか、かなり危険なインフルエンザとかになるぞ。そうだ、殺処分だ。殺処分しよう。だからこいつのことは忘れてくれ。頼む、今の出来事はすべて記憶の彼方に沈めてくれ!
「いいわね」
瞬間、俺は世の中に絶望した。
「クク……なるほ、どふ……っ!?」
戸松に再び蹴り。
笑うたびにこうしようか。俺は習慣的にしてやってもいいぞ? そうしてパブロフの犬を作り上げよう。ヨダレ垂らして足を出せ。折ってやる。折ってやる。
「でも」
的場は小さくほころびた。
「……ごめんなさい、用事があるの」
「おや」
俺の脳裏に「大勝利」の文字が流れた。
「そう、ですか……」しゅんとする。うっはっはっ、ざまあみやがれ。
「ええ。誘ってもらって、なんだけど」
一礼。
生活の場を想像させる、綺麗な礼だった。まるでオジギソウのように美しい。
「あ、いえ、いいんですよ。またの機会にしましょう?」
「そうね」
まさか。断固阻止だぜ。
そんな輝かしいフューチャーがあると思うなよ? おまえが調子に乗っていられるのは、今この時までだ。俺の心に積もった憎しみはそう簡単には溶けないぞ。波木よ、覚悟して待て。
「それじゃあ……おほん…………ごゆっくり、どうぞ」
「……釣れませんでした」
美人の姿が芥子粒になった頃、プレイボーイが呟いた。
「珍しいものは見れましたがね……男臭いランチですよ」
「けっ、イヤなら消えろや」
ちょっとむくれた戸松が食後の一服に手を伸ばす。途端、波木がそれを乱暴に奪った。
「あなたがそういうことをするから女の子たちが逃げるんです!」
「抜かせ」舌打ち。「……返せよ、裏で吸ってくるから」
「まるでTPOを弁えない……」
「テメエには言われたくねえよ、っと」
「まったく……ん? どうかしました、浅葉?」
ふとして波木は俺の視線に気付いたらしい。
俺は低く笑った。
「あの、目が……?」
「裁きを受けよ」
「は?」
そう、波木は裁かれなくてはならない。
的場を惑わした罪。
的場に近付いた罪。
そして、俺より的場と会話をした罪。
罪人は罰を受けるものだ。
自ら犯した大罪を、その身で清算しなくてはならん。
「げ」
闇に溺れろ。
「この……ゴ、ミ、虫、がぁ――――――ッ!!!」
「使えんのかよ……」
おばちゃんにトレイを貰って移動する。
まさか高校がそんなにデジタル化しているとは思わなかったぜ。アナログ放送が終わるのも無理はない。世界は間違いなく次なる時代へと変貌しているのだ。ああ、頭が痛い。
「出してみるもんだな」
「悪いですね、浅葉」
二人の前には唐揚げ定食(600円)が置かれていた。
「遠慮を知らんのか?」
カードで支払えたことよりもそっちの方が気になった。
前者に関しては考えても仕方ないと思ったのもある。
「なぜ俺だけが一番安いおにぎりセット(160円)を選ばにゃならん?!」
「趣味の違いだろ」
「ジェネレーションギャップってやつでしょうか」
「はあ? なにこいつらマジきめえ。つうか死なす。必ず死なす。楽しいイベントの前日に死なす」
「あ、ちょっと!」
唐揚げをひとつずつ没収した。
「国王か、テメエは」
「うるせえブタ」咀嚼。
ほう。
うまい。
うまいぞ、これは。
こいつぁもしかすると名古屋コーチンとかいう贅肉(贅沢な肉)なのかも知れん。うおお、さすがは600円! 一気に食べてしまうのが惜しいぜホント。
「……心の貧しい野郎だ」
「冬が終わってもアリさんの労働は終わりませんね」
「…………」
黙殺した。
「……ところで、話の続きだが」
生きる時代を錯誤しているのではないかという風に唐揚げを食い千切る戸松。
俺はお供えものみたいなたくあんをしゃくしゃくした。美味なり。
「そのルルってメスは、どういうスケなんだ?」単語も場違いであった。
「よくわからん。トイレとかコーヒーとか、なんも知らねーみたいだし。あ、頭は悪い」
「ざっくりだな」
「哺乳類ですよねぇ? 火とか怖がるんじゃないですか?」
「さあな。コンロ使わせてないし」
「ガス生きてんのか」
「ったりめーだろカス」
いくら貧しくてもライフラインだけは確保している。というか、ある程度は国が守ってくれてるわけで。言葉にするとなかなか強力なバックボーンだ。政治的には知らんが。
「今は? 家に一人で?」
「ん。だって俺学校あるし。他に方法あるか?」
「いえ、そうではなくて……平気なんですか?」
「なにが」
「だから、留守を預けたわけでしょう? ルルさんが物取りである可能性は考えなかったんです?」
「あー……」一瞬、悩む。
「てか玄関壊れてるし。新手の泥棒なら昨日やってるんじゃないか? 第一、ウチに取られて困るようなブツはないしな。ははっ」
「でしょうね」
「表出ろや」
波木は口笛を吹いた。
「……だが安心は出来んぞ? 家そのものを盗まれるかもわからん」
「ねえよ! おい、面白半分に事荒立てようとすんなよ。これ以上厄介ごとが起きて堪るか」
「もう起きてるかも」
「っせえ!」
「はいはい」
ぐふぐふ笑った。実に楽しそうなので腹立たしい。
「……ま、嫌な展開を想像しておくのは悪いことじゃないだろうな。むしろ、なにもないと高を括るのは危険だ。それに事なかれ主義ってのは邪念だぞ? テメエだけの平和は夢でしかない」
「同感ですね。そもそも、浅葉は内側に篭り過ぎます。現実は空想の中で動いているわけではありませんよ? ね、もっと真実に触れなければ。ね?」
高尚っぽく語るが、顔つきを見るにただ不安にさせたいだけに違いない。
ははは、さすがはクソ共。根っから腐ってやがる。
こういうのがいるから世の中ダメになるんだ。
もっとクリーンにしようよ。
戦争反対、社内恋愛禁止。
そうだ、身近なヤツが悪を粛清せにゃならん。うむ。罰することで、未来を清めるのだ。
「地獄の右ストレートをくらいやがれ」
「……あの」
拳を握った時、後ろからお声が掛かった。
「談笑中に悪いわね……ええと……その……い、いらっしゃいませー……?」
歌うような癒し系ヴォイスだった。
「……へ、あ」
見上げる。
そこに美人がいた。

「ようこそ、いらっしゃいました……あの……こちら、サービスのグミでございます……」
「え……」
とびきりの美人だった。
目を疑うほどに。
……しかし、知らない顔じゃない。
絹のような長い黒髪、綺麗な三日月の眉に……細く、線の通った鼻筋。
日本人形が命を持った、と言われればそのまま信じてしまうかも知れない。
人類史上最高峰の玉容。
幸福なことに今年から我がクラスメイトとなられた美人は、その名を的場という。
「注文は……お済みのよう、ですね。ん……んんー……他になにかありましたら、伺いますが……?」
エプロン姿の的場がおろおろとして唇を噛む。
頭の隣にぼのぼのっぽい架空の「つ」文字が見えた。
……戸惑っているのだろうか?
いや、俺の方が戸惑っている。
「的場……さん?」
初めに口を開いたのは波木だった。
「すみません、もしかしたら人違いかも知れないので…………的場さん、ですよね?」
的場はシマリスが首を下げるような小さい動作で肯定した。
「……驚きだな」
戸松が怪訝に呟く。
まさにおかしな光景だった。
的場といえば、当校屈指のクールビューティーである。
クラスメイトと群れようとしない、孤高の存在。
だが的場本人が拒絶しているわけではなく、周囲が的場なる生徒のポテンシャルに圧倒され、近付くことに後ろめたさを抱いているのだ。
毅然とした美人の横に並べば、平凡な我々は劣等感も覚える。
それはもう自分が同じ人間であることに疑問を持つほどのレベルなのだから、実際相当なものであった。
「あの、今なら……ゴボウサラダなんか、美味しいと思……思いま、ちっ?!」
舌を噛んだらしい。
顔を隠して、かすかに震える。
「へ、平気……?」
「…………」
何も言わなかった。
異常だ、これは。
「なにを、しているんですか……?」波木がテーブルに置かれたグミをくにくにしながら問う。
「ボクはまだあなたとの付き合いが長くありませんけど……いきなりキャラ間違えてません……?」
的場はそっぽを向いて、大きく息を吐いた。
「……仕方ないのよ」
肩が落ちる。
「さっき、そこでお皿を割ってしまってね…………おばちゃんは気にしないで、なんて言ってくれたけど……そうもいかないじゃない?」言いながら、ポケットからグミを出した。
「…………どうぞ」
戸松の前に着陸。
お菓子を携帯してるのかな? サービスの意味はわかんないけど、的場からもらえる物なら消しゴムの欠片でも嬉しいもんだ。
「えっと……だから働いている、ってことですか? ここで? この、学食で……?」
「ええ」
「なんだかファミレスみたいですね」
「だって、厨房に仕事はないみたいだし……それに私、料理は得意じゃないのよ」
まったく、とでも言う風にして項垂れる。
片手で両目を覆い、一層肩を落とす。
「義理堅いヤツだぜ」
「うむ……」
頷きつつ、唾を飲む。
本人には悪いが……その時俺の胸は、人知れずきゅんきゅんしていた。
仕方ないさ。見慣れない姿ってのは、ちょっとした衝撃だからな。
普段大人しいヤツがど派手な服装で買い物してる姿、とか。クラスではイケイケなヤツが本屋で静かに品出ししてる様子、とか。ギャップが激しければ激しいほど、こちらのショックは大きくなる。
俺が今までで一番びびったのは小学生の頃、日本ガリベン協会代表取締役みたいな学級委員長ヒロシくんが誰もいなくなった学校隅のコイコイ池(教頭がコイを飼っている池)で「ふざけんな、俺にばっかり頼りやがって!」「死ね、ガキ共!」「バカは学校来るんじゃねえよ!」と本気っぽい釣竿と本気っぽいルアーで本気でコイを釣っているところを見た時だった。話を聞くにはヒロシくん、家でかなりきつい英才教育を強いられていたらしく、また親の為、内申書の為に表向き利口を貫かねばならず、結果ストレスを発散する場所がなかったという。
現代社会の闇だ。
彼は東大を目指し、私立の中学に入学したが、今どうなっているのかはわからない。
「ふぅ……」的場の吐息。
きっとバラとかジャスミンとか、そんな香りがするのだろう。
本人の手前、さすがに嗅ぎはしないが。
ったく……俺はもう動悸、息切れで永逝しそうだよ。マジで。
「……変でしょ、この格好。似合わないのよ……これは家庭的な女の子が着るものだわ」自嘲してエプロンのひらひらを摘む。一挙手一投足が俺のラブミットにストライクだぜ。
「そんなことありませんよ。ねえ、浅葉?」
「ほふっ」
いきなりのパスで躊躇する。
「ねえ?」
波木がニヤニヤしていた。
「ねえ?」
「よ……ヨキカナ」
「?」
鼻息は荒かったが、返答しただけでも頑張った方である。
「クク、顔が赤いぞ……」
戸松に言われて気が付く。
顔どころか全身が熱い。
煮込まれてるような気分だぜ。
わき汗がひどかった。汗わきパット買わないと。くさい男と思われたくない。
「ま、それはともかく……どうです? 一緒に食事でも?」
「っ!?」
波木がいつものノリでナンパしたので俺の眼球は真ん丸に開いた。
「え? いや、私は……」
「お疲れでしょう? ね、ね、ね? あ、そうだ。ボクの唐揚げあげます。ね? ほら、どうぞ! 座ってください!」
なんちゅー男だ。
こいつには空気とか身分とか、そういうのが頭にないのか? 咲いたばかりのタンポポを踏みにじるような行為だぞ。新雪を汚すつもりか、この残虐野郎。
「どうかボクの隣に、的場さんのおケツを下ろしてくださ~い」
下劣な口調だった。ブチ切れる。
「おいっ! おめえ、なんのつもりだ!?」
「仲良くしようかと」
「的場はお勤め中だろうが! わかんねえのかよ……っ!」
「えー? もーいいじゃーないですかー……」
「よくねえよ、クソハゲ! 邪魔すんな!」
ったく、自分のことしか考えてやがらねえ。
見ろ、的場が困ってるじゃねえか。
なんで困らせるんだ! 的場を困らせるんじゃねえよ!
「必死なもんだ……ククク」
戸松が悪魔っぽく腹を抱えた。
「ぐがっ!?」その脛をテーブルの下で蹴る。
「て、テメエ……」
はん、俺の爪先が鉤爪でなかったことを幸運に思え。
人をおちょくるからそうなるんだよ。遠慮して生きろや、ボケナス。
「むー……なら放課後、放課後はどうですか?」
「そこまで食事がしたいのか。見境ねえなこの痴漢」
「……いえね、最近駅前に美味しいと評判の定食屋が出来まして。行ってみたいなーと思ってたところなんですよ~」
「わかんねえ男だな、コラ」胸倉を掴む。
「おおう……浅葉、ウェイト、ウェイトっ」このまま階段から突き落としてくれるわ。
「…………」
戦火の中で、荒地にきらめく一輪の花的場は人差し指を唇に当てた。
「定食……ね」
あ、揺らいでる。
どうしよう。和食好きなんだ、この美人。
「カツがお勧めだそうです」
「……へえ」
口をぱくぱくと開閉して、考える風な目の動き。
あかんで。誘惑に負けたらあかん。的場、マジに食べたいならお友達……がいるかは知らんけど、家族と行けばいい。波木はダメだ。そいつはクズだ。クズと付き合っちゃいけない。病気になるぞ。なんか、かなり危険なインフルエンザとかになるぞ。そうだ、殺処分だ。殺処分しよう。だからこいつのことは忘れてくれ。頼む、今の出来事はすべて記憶の彼方に沈めてくれ!
「いいわね」
瞬間、俺は世の中に絶望した。
「クク……なるほ、どふ……っ!?」
戸松に再び蹴り。
笑うたびにこうしようか。俺は習慣的にしてやってもいいぞ? そうしてパブロフの犬を作り上げよう。ヨダレ垂らして足を出せ。折ってやる。折ってやる。
「でも」
的場は小さくほころびた。
「……ごめんなさい、用事があるの」
「おや」
俺の脳裏に「大勝利」の文字が流れた。
「そう、ですか……」しゅんとする。うっはっはっ、ざまあみやがれ。
「ええ。誘ってもらって、なんだけど」
一礼。
生活の場を想像させる、綺麗な礼だった。まるでオジギソウのように美しい。
「あ、いえ、いいんですよ。またの機会にしましょう?」
「そうね」
まさか。断固阻止だぜ。
そんな輝かしいフューチャーがあると思うなよ? おまえが調子に乗っていられるのは、今この時までだ。俺の心に積もった憎しみはそう簡単には溶けないぞ。波木よ、覚悟して待て。
「それじゃあ……おほん…………ごゆっくり、どうぞ」
「……釣れませんでした」
美人の姿が芥子粒になった頃、プレイボーイが呟いた。
「珍しいものは見れましたがね……男臭いランチですよ」
「けっ、イヤなら消えろや」
ちょっとむくれた戸松が食後の一服に手を伸ばす。途端、波木がそれを乱暴に奪った。
「あなたがそういうことをするから女の子たちが逃げるんです!」
「抜かせ」舌打ち。「……返せよ、裏で吸ってくるから」
「まるでTPOを弁えない……」
「テメエには言われたくねえよ、っと」
「まったく……ん? どうかしました、浅葉?」
ふとして波木は俺の視線に気付いたらしい。
俺は低く笑った。
「あの、目が……?」
「裁きを受けよ」
「は?」
そう、波木は裁かれなくてはならない。
的場を惑わした罪。
的場に近付いた罪。
そして、俺より的場と会話をした罪。
罪人は罰を受けるものだ。
自ら犯した大罪を、その身で清算しなくてはならん。
「げ」
闇に溺れろ。
「この……ゴ、ミ、虫、がぁ――――――ッ!!!」
メイト

「それはいわゆる、落ち物系ヒロインってやつですね~」
授業が一段落した正午の教室にはちょうど季節を思い出したかのような暖かさが訪れ、クラスメイトはみな様々に机を移動させたり階下の学食を目指したりで小一時間ばかりの自由な休息を得た。
「なんだよ、それ」
「つまりですね……」
スピーカーからはピアノ主旋律のジャズが流れ、なるほど放送部は我々学徒に与えられた短いランチタイムをせめて安らかに過ごせるようにと熟考した選曲をしているのだろう。厳格ないし上品すぎるクラシックでは体の緊張は解けないし、かといって無駄にアップテンポの曲を流されてもうっとうしい。
今朝は見るも無残、銃弾によって破壊された玄関を前に「おいもう学校とか行ってる場合じゃねえだろ……」と心に巨大な風穴を開けられた気分になったが、まあ人間の脳みそってやつはよく出来ているもんで、実際に登校してみると星の数ほどあった心労もその他雑多な物事のひとつに加わる。もちろん、それはただ一時的に記憶が薄らいでいるだけに違いないのだが、そうとしてもとりあえずは肩の荷が下りるのだから、これを安らぎと呼んでも差し支えはないだろう。
「平凡な日常のどこかで出逢う、美少女の総称です」
「美少女て」
後ろの席に腰を下ろした波木が、そろそろ目を隠そうかという髪をちょいちょい指で払う。
邪魔なら切ればいいのに。そういうのがカッコいいって年頃なのかな? どうでもいいけど、目によろしくない。
「ただし!」
「うん……?」
俺は相談のつもりで、昨晩からの激闘を話していた。
「出逢うだけではありません。その美少女の拾い主……或いは落しもの自身の意思で、どちらかの家に連れ込むことが条件になります。発生確率は一年に三十本くらいでしょうかね。あ、でも最近はそういうプロットは少ない傾向がありますよ。ほら、流行って流れ去るものですから」
「……へえ」
うんうんと頷き一人で納得する波木。セリフに含まれた「ね、そう思うでしょ?」って感じがなんかイラつく。
「で、それなんてタイトルですか?」
「ゲームじゃねえし」
波木はやれやれと首を振った。
「浅葉……あなたは少々妄想癖がある」
「おいクランケ扱いすんなよ、変態」
「だってあなた、前例がありますよ」
「んだよ」
「この間もほら、あなたカニカマにカニが入ってると思ってたでしょ?」
「ああ……いやおめえ、それはしょうがねえだろ……」
ぶり返そうとしやがる。
つうかあれはカニだし。どうみたってカニだし。味だって、だいたいカニじゃねえか。悪者を創出するなら、カニでないカニカマがいかんよ。
「なぜです……? なぜそうまで幻覚を見たがるのですか? いい加減に現実を見て下さいよ、まったく……ボクには理解できません」
まるでクスリでもやってるかのように言う。
はは、こやつめ。
俺だって人の話を恋愛ゲームに置き換えるような男には心配されたくない。が、まあ確かに……あれをノンフィクションだと信じてもらうのは難しいわな。あまりにも非現実的で、ぶっちゃけ性欲丸出しみたいな内容だから。突っ撥ねられるのも当然か。
「……でも」
波木はふとワックスでキめた無造作ヘアをわしゃわしゃと乱した。
少し長めの金髪の下に人懐っこそうな顔立ちが見える。
クォーターという特殊ステータスを持つ男はしかし「でも、ですね……」バリバリの日本語で苦しそうな声を上げた。
「それが本当だとしたら……本当だとしたらですよ……?」
「うん」
溜息。
「……なんて、羨ましいんだろう」
感情と一緒に理性まではじけたかの正直者だった。
「マジで……?」
「マジです」唐突に憂いを帯びる。
俺にとっては人生最悪の日ベスト3には入る一日だったのに……主観が違うとそんな風に変化するのか。いやいや、その方が理解できんな。本当に、ぶったまげるぜ。
「ルル……ルルさん……ああ、彼女が浅葉の創作物に過ぎなくても……ボクはルルさんを、愛してしまうかも知れない……!」
「うひょー、アブネー男だな」
「紹介、紹介してください……ッ!!!」
「触んなよ、怖えから」
顔はイケメンの部類だろうに、中身はガチガチのオオカミさんだった。
「……そんで、テメエはどうする気だよ?」
一方。俺の机に座った男、戸松が問いかける。

この二人は腐れ縁のクラスメイトだ。
草食系の波木とは対照的に、戸松は生肉が好きそうながっしりとした風体。
赤髪、ロンゲ、ピアス、ネックレス……と、体の端々では重たいアクセサリーがギラギラと輝き、おまけに胸ポケットからはタバコの箱がちょこんと顔を出している。唯一その中でアンバランスともいえる縁の太い眼鏡が外見上の知的さを醸し出しているが、それはフェイクである。度が入っていないのだ。曰くファッションの一部らしいが、ま、若者文化ってやつかね。ったく、よくこんな男が登校できるもんだよ。あからさまにクズじゃないか。
「どうするもこうするも」
「住むのか? 一緒に? 男と、女で?」
「そういう言い方すんなよ。不貞が働きそうだろ」
「働くさ」
「ぜってー働かねー」今のはニートっぽい。
「バカが……人間同じ場所に居続けたら、異性でなくとも好き合うようになってんだよ」
「ならん」
「自分を過信するな」
「してねえよ! つうか、おまえ見てないからそんなこと言えんだって! ガキだぞ、ガキ。それもとびきりうざってえの」
「ボクは七歳から四十五歳まで、二次元から三次元までいけますが?」波木がせせら笑う。「更に近頃ではかわゆい男の子にも反応するようになってきましてね。ふふ……守備は拡大、下半身の金城ですよ」
「死ね」
風紀委員は何をしている。ここにわいせつが形をもったみたいなヤツがいるじゃないか。俺が許す、座席ごと島流しにしろ。
「まあ……その状況だと断れなかったのは仕方ないと思うが……」戸松が顎を撫でた。
「おや? 戸松は信じる派ですか」
「こいつが言うような冗談ではないからな。どこかに嘘があったとしても、全部がそうじゃないだろ」
「マジバナだって」
「んー……写メとかないんですか?」
「ねえけど。これなら」
財布からキャッシュカードを出して渡す。一応、近くに置いておくことにしたのだ。なぜかって? そりゃこれがなくなると交渉の余地がなくなるからだ。
俺は昨晩の出来事に多少なりとも後悔している。
いや……あれは抵抗可能な空気ではなかったし、俺だってなによりも自分の命こそ大切なのだが……それでも子供を一匹預かるなんていうのは正気の沙汰ではない。数日ならまだしも、期間すら定かではないのだ。決裂しなければならないし、決裂するのがフツウだ。
願わくばもう一度ヤツらと接触して、和解せんといかん。
まあまあまあまあ、あの連中にそれが出来るか否かを考えると絶望的と言わざるを得ないが……すでに絶望してる状況なのだ。やるしかなかろうて。
「資本主義万歳!」
カードを受け取った波木がまるで石油でも発見したような破顔で吠えた。
「じゃ、とりあえず昼飯はおまえの奢りで」戸松が同調する。
「は? バカ言うなし。こんな怪しい爆弾みたいな危険物そう易々と出せるもんか」
というかそもそも未成年が保持していいブツなのか、これ?
高校生なんてまだまだ判断力に欠ける生き物だぞ。そんな若人にカードはマズイ。悪用するかはモラルの問題だけども、どう転んでも良いようにはならんだろう。
「いざ学食へ」
「おい、てか学食でカード使えるわけねえだろ? ちょ、ま、ざっけ……おうこら、カス共! 貧乏人にたかるんじゃね――――ッ!」
朝の香り
澄み渡ったコバルトブルーの空に桜の花びらが泳いでいる。
肌寒さの残る、春の夜明け。
時刻は午前七時を回り、俺の体は否応なしに習慣化された一日を開始した。
一応目覚まし時計は持っているが、規則正しい生活を送りさえすれば起床にそれは必要ない。むしろ朝から機械に騒がれては気分が悪い。時計は主人の目を覚ますことなく、刻々と針を動かすだけ。ただそれだけでいい。
「……よし」
ベランダでハーブの健康診断を済まし伸びをする。これは覚醒後、最優先で行われる日課であった。
相手は命あるモノなので常のチェックを欠かしてはならない。
彼らを死に至らしめるということは即ち、俺の娯楽および食生活をめちゃくちゃに粉砕することだ。
人間は食事をしないとその機能を十分に果たすことは出来ない。
こと娯楽に関してもそうだ。ストレスは貯蓄するものではなく、一定の間隔で逐斥しなければ破綻してしまう。
空気抜きを行うことで世の中から与えられた猛毒を無理のない返済プランで解放していくのだ。
風が大気を押し流すように。
荒れた心模様に、草花を植える。

「オーケー、問題ない。ご機嫌麗しゅう」
腕を組んで頷いた。今朝も元気そうで何よりである。
「……さて」
深呼吸して、遠く、町を眺めた。
家々の屋根を照らす強い陽光が冬の名残を緩和している。
穏やかな時間だ。
うっかり微笑を零してしまうくらいに高い青空。
眠気は消えていたが、まだ早い時間帯である。しかして道行く人々の中には急いで自転車を漕ぐサラリーマンの姿がちらほらと見えた。
大人は忙しそうだ。
大人はいつでも忙しい。
まるで生き急いでいるのではないかと思うほどに、アダルトたちは疲弊した面持ちで項垂れている。
例えば昔近所に住んでいたお姉さんも「どうせマヤが世界を滅ぼすし」と謎の呪詛を囁きながら、大学卒業ギリギリでその社会的一味に加わった。
高校時代の明るい彼女を見ている分、あの鬱屈した様相には驚いたもんだ。
人を呪わば穴二つ。実際企業への呪いが反射して、きつい背後霊でも引き付けていたのかもな。
彼女は今どうしているだろう?
わからないが、まあ生きてはいるんじゃないかな。
元々近所付き合いというだけで成立していた関係だ。
家を出た俺に、その後の動向を知る術はない。
「……やべ」
近くの公園に野良猫ファミリアを発見した頃、キッチンの方からお湯の沸騰する音が聞こえた。
慌ててサンダルを脱ぎ捨て、火を止めに走る。
「うおっとっと」
やかんから出た水蒸気がほんのりと額を濡らす。
俺はそれを片腕で拭い、食器棚からカップを取り出した。
朝食は簡単なものだ。
一杯のコーヒーないし紅茶と、焼いた食パンを一枚。どうしても足りなければそこに目玉焼きかサラダを加える。
必要な分しか作らないので、昨日の残り物という選択肢は存在しなかった。
脳のことを考えると朝はあまり食べない方が良いらしい。
真偽は定かでないが、どちらにせよ金銭的な問題の多いハウスだ。朝のメニューは頭に関係なく決定される。
まあ、表向きは「脳のため」と言っておこう。
そう主張しておけば食卓から悲劇的な雰囲気がいくらか消えてくれるからな。
暗い気持ちで食う必要もない。
特に、こんな朝は。
「あ」
古めかしいトースターがきつね色のパンを吐き出したのと同時。
リビングに、一人の少女が現れた。
「アサバ……」
洗面所帰りだろう。立ち止まり、こちらの名前を呼ぶ少女。
ここ数日で最も接触回数の多かったレディである。
裸で自販機を蹴り飛ばすというショッキング極まりない邂逅兼犯行は今尚、曇りなき我が網膜に焼きついている。
臭気は薄れているが、髪は相変わらずボサボサのようだった。
それでも光を受ける銀色は磨き上げられた水晶みたいな輝きを放ち、朝の演出が伴った容姿は微睡に戻されるが如く、見る者の心を打つ。
「……お、おはよう」
どことなく様子がぎこちないのは何故だろうか……?
そんなことを思い、すぐに首を振る。
疑問に思う方がおかしいのだ。むしろこれは普通の反応といえる。
何しろ俺たちは昨晩……ほぼ初対面の状態から同棲することが決まってしまったのだから。
「おはよう。よく寝れたか?」
更には一晩を共にしている。
男と女が同じ屋根の下で眠る、R指定の夜だ。
まるで新婚さんではないかと疑われるハート型ピンクなシチュエーションだが、
「……寝れるワケ、ないじゃん」
「へえ?」
少女は怒気を含んだセリフで、ゆっくりと俺に横顔を向けた。
「見ろよ、ここ……超跡ついてる」
と、そうして指差すのはミルク色の頬。
「全身痛いし、逆に疲れた……」
……ふむ。
確かにそこには線路のような迷路のような……フローリングの床をレイヤーで重ねたかのようなボディアートがくっきりと刻まれている。
年頃の女性ならみんな化粧くらいはするんだろうが、これをメイクと決め付けるのは早計だろう。適切とはあまりにも言い難い。
では一体、どうやればこんな珍奇なオシャレが完成するのか。
「だろうな」
考えるまでもなかった。
そりゃ顔を床に押し付けて寝る他にあるまいよ。
「……わたし客じゃん。なにこの扱い。なんでおまえが、その……ベッド? っていうやつ使ってんの?」
不満を露わにふかふかを一瞥する少女。
俺が占領した、たった一つの寝台。
床で夜を過ごしたそいつは、羨ましそうに唇を噛んだ。
「なんでって……俺のだし?」
「知ってるよ! でも、そっちわたしだろ!」
「はは」俺は笑った。
「笑わせんな、ボロクズ」
そして睨みつける。
憎しみだの嫌悪だのを込めて眼光を投射。
もしも俺の体にサイドワインダーが搭載されていたらば今頃ヤツは粉になっていただろう。
正常な人間であったことが裏目に出た。来世では機械人形になろう。
「貸せよ!」
「死ね」
マジふざけんな、と。
つまらん勝手を抜かしやがって。
これは愛し愛されての同棲じゃねえのだ。ラブなんざこれっぽっちもねえ。
この女――――ルル――――は、昨日の災厄により我が「浅葉家」の住人となった“居候”である。
居候がベッド? 馬鹿か、千年早い。
要求することも許されんぞ。奴隷が玉座に腰をおろすようなもんだ。末代までギロチン刑に処されるだろう。
「へっくち……っ!」
本来ならば少女の言動は万死に値するが、断罪してしまうと不都合が生じる。
まったく、社会とは世知辛い。
こういう次元の苦労を一学生がしてよいものかと思い、俺は深く溜息を吐いた。
「ああ寒い……全然泊まった気がしないよ……」
顔色の悪い少女ルルは、膝まで届こうかというサイズ違いのシャツをぐっぐっと下に引っ張った。
上半身を守るために作られたブツで下半身も助けてもらおうとはおこがましい。が、気持ちはわからなくもない。
シャツは乱れていた。
乱れているどころか、破れていた。
「くっそ……伸びない……」
ビジュアル系の衣装でもイメージさせるそれは、三日前まで俺の防具だったモノだ。
急遽ウチに宿泊する事となった少女は、己が身一つ(ヌード)で浴槽に浮かんでいた為「こりゃさすがに道徳とか倫理的にまずいだろう……」と判断した俺が、雑巾にミラクルチェンジしようと思っていたこれまた三日前にルル自身が引き裂いたシャツを仕方なく贈呈してやったのだ。
「うが、今またビリって……ッ!」
現在そのシャツは、シャツとしての機能をほとんど果たしていない。
服を着ているのに視覚的、体感的に肌の面積の方が広いのだ。
領土問題の起こった大地は若き男子の脳を刺激するのに容易と言えよう。
「……はぁ」
ルルはふとももを擦ってなんとか体温を上げようと努力した。
仮にも家の中だというのに…………下着を装備していないせいか?
いや、でもな。
俺は女物の下着なぞ持っとらん。
当然だ。俺は男だ。
故に少女がシャツ単騎になるのは止むを得んだろうて。
どうしても欲しいならお泊りセットを持って来い。
マジで。本当にさ。
手ぶらとか、マジあり得ないから。
「……憶えてろよ、アサバ」
「なにをだ」
「なにも、かも」
漠然とした糾弾を吐いて首を垂れた。
泊らせてもらった上に服まで頂戴して、よくそんなことが言えるよな。この恩知らず。
履歴書はOKでもバイト先の面接で落ちるタイプだ、絶対。
「ん……ぱお、ぶわっ!?」
俺はルルに台ふきんを投げつけた。
「……つ、冷たぁ」
水分を含んだふきんはなかなかの音を立てて、ルルの鎖骨に直撃する。
「テーブル拭いてこいよ、ダボハゼ」
働かざるもの食うべからず。
いかなる時代も無銭飲食を許しちゃならんぜよ。
「乱暴すんな!」
ギャアギャアとうるせえチビが。
「寒いって言ってんだろーガーっ!!」
叫びながら白い生足をぶるぶると微動させる。
両手で摩擦熱を起こそうと屈んだことで、服と胸の間にちょっとした隙間が出来た。
「む?」
その狭きスペースに、乳の丘がチラリズム。
「………………………………」
……なんつーか、無防備だな。現代人のくせに。
普通、これほどナチュラルに異性との関係を無視できるもんかね?
もうちょっと恥じらってもいいだろ。女として。
それともなにか。これは挑発なのか。
ガードを拒否する以上、攻撃には自信があるってことか? いやいや、どんなに自信があっても防御はすべきだ。そもそも美しい作りこそしているが、少女の体型はあくまでも少女である。決してグラマーではないし、アピールポイントとしてはまだまだ未熟だろう。
ならその自信はどこから来るのだ。
もしかして、俺になら通用すると思っているのか?
俺がこのゴミカスに誘惑されると。
誘惑され、自分に夢中になるだろうと。本気で思っているのか……?
バカな。
甘く見てもらっては困る。
むしろ腹立たしいわ。格闘ゲームの世界だったら完全に舐めプレイだぞ。
「おうこら、舐めんなよ」
眉間にしわを寄せてルルを威嚇する。
犬はコミュニティーの中で序列を作ると聞くからな。
ケモノ的な少女がクソみてえなヒエラルキーを築いても困る。
この家で一番偉いのは俺だ。
次に素晴らしいのがハーブ。
そして底辺でネズミ、ゴキブリ、ダニ、ムカデたちが己の体液を流して争う。
「最後がお前だ」
「……わけわからん」
ルルの口調は生意気だった。
なにこの人、ちょーキモいんですけど~的な。
そういうギャル語リズム。
「癇に障るメス野郎が」
「わたしは一体、男なのか女なのか……」
いつもの俺ならこの瞬間に七回くらいは蹴りを入れていただろう。
黒服さえいなければ……この行動に制限は掛からなかったのに。
ったく。
お邪魔なバックボーンが予想以上に鬱陶しいぜ。

「なあ。ところでそれって、ごはん?」
シャツで濡れた部分を拭きながら、ルルはトーストを指差した。
「食えんの?」
失礼な。俺のメシが残飯だとでも申すか。
「んまそうな……匂い?」
「おい、いいからさっさとテーブル綺麗にしてこいよ」
「ね、こっちは?」
「あん? こっちって……おまえコーヒーも知らねえのか。どんだけ劣悪な環境で育ったんだよ、人間もぐり」
「変なニオイ」
「キルすんぞ」
「アサバこれ、好きなの?」
「地球人の朝は必ずこれなんだ。赤ん坊にとっての母乳と同じ。飲んでないのは世界中でおまえだけ」
「嘘つき」
「俺がおまえに嘘ついちゃいけねえ道理でもあんのかよ」
「意味わかんないけど」
「女はすぐそれだ。言われたことの意味を考えようともしない」
「はぁ……やっぱり意味わかんないや」
会話を諦めたのか、ルルはそこで言葉を切って、テーブルへと向かっていった。
俺としても話がしたいわけではないので、そうしたスイッチが早めに出ることはありがたい。
「チッ……」
空虚ではあるが。
我々の関係はドライなのだ。
寝食を共にする条件こそあれど、そこで親和を図る必要はない。
理解しなくていい。
されなくてもいい。
そういう交渉だったのだから、こちらはそれに徹するべきだろう。
「…………取り引き、ね」
呟いて外を眺める。
春風の吹く、午前の景色。
どこかから……猫の鳴き声が聞こえた。
肌寒さの残る、春の夜明け。
時刻は午前七時を回り、俺の体は否応なしに習慣化された一日を開始した。
一応目覚まし時計は持っているが、規則正しい生活を送りさえすれば起床にそれは必要ない。むしろ朝から機械に騒がれては気分が悪い。時計は主人の目を覚ますことなく、刻々と針を動かすだけ。ただそれだけでいい。
「……よし」
ベランダでハーブの健康診断を済まし伸びをする。これは覚醒後、最優先で行われる日課であった。
相手は命あるモノなので常のチェックを欠かしてはならない。
彼らを死に至らしめるということは即ち、俺の娯楽および食生活をめちゃくちゃに粉砕することだ。
人間は食事をしないとその機能を十分に果たすことは出来ない。
こと娯楽に関してもそうだ。ストレスは貯蓄するものではなく、一定の間隔で逐斥しなければ破綻してしまう。
空気抜きを行うことで世の中から与えられた猛毒を無理のない返済プランで解放していくのだ。
風が大気を押し流すように。
荒れた心模様に、草花を植える。

「オーケー、問題ない。ご機嫌麗しゅう」
腕を組んで頷いた。今朝も元気そうで何よりである。
「……さて」
深呼吸して、遠く、町を眺めた。
家々の屋根を照らす強い陽光が冬の名残を緩和している。
穏やかな時間だ。
うっかり微笑を零してしまうくらいに高い青空。
眠気は消えていたが、まだ早い時間帯である。しかして道行く人々の中には急いで自転車を漕ぐサラリーマンの姿がちらほらと見えた。
大人は忙しそうだ。
大人はいつでも忙しい。
まるで生き急いでいるのではないかと思うほどに、アダルトたちは疲弊した面持ちで項垂れている。
例えば昔近所に住んでいたお姉さんも「どうせマヤが世界を滅ぼすし」と謎の呪詛を囁きながら、大学卒業ギリギリでその社会的一味に加わった。
高校時代の明るい彼女を見ている分、あの鬱屈した様相には驚いたもんだ。
人を呪わば穴二つ。実際企業への呪いが反射して、きつい背後霊でも引き付けていたのかもな。
彼女は今どうしているだろう?
わからないが、まあ生きてはいるんじゃないかな。
元々近所付き合いというだけで成立していた関係だ。
家を出た俺に、その後の動向を知る術はない。
「……やべ」
近くの公園に野良猫ファミリアを発見した頃、キッチンの方からお湯の沸騰する音が聞こえた。
慌ててサンダルを脱ぎ捨て、火を止めに走る。
「うおっとっと」
やかんから出た水蒸気がほんのりと額を濡らす。
俺はそれを片腕で拭い、食器棚からカップを取り出した。
朝食は簡単なものだ。
一杯のコーヒーないし紅茶と、焼いた食パンを一枚。どうしても足りなければそこに目玉焼きかサラダを加える。
必要な分しか作らないので、昨日の残り物という選択肢は存在しなかった。
脳のことを考えると朝はあまり食べない方が良いらしい。
真偽は定かでないが、どちらにせよ金銭的な問題の多いハウスだ。朝のメニューは頭に関係なく決定される。
まあ、表向きは「脳のため」と言っておこう。
そう主張しておけば食卓から悲劇的な雰囲気がいくらか消えてくれるからな。
暗い気持ちで食う必要もない。
特に、こんな朝は。
「あ」
古めかしいトースターがきつね色のパンを吐き出したのと同時。
リビングに、一人の少女が現れた。
「アサバ……」
洗面所帰りだろう。立ち止まり、こちらの名前を呼ぶ少女。
ここ数日で最も接触回数の多かったレディである。
裸で自販機を蹴り飛ばすというショッキング極まりない邂逅兼犯行は今尚、曇りなき我が網膜に焼きついている。
臭気は薄れているが、髪は相変わらずボサボサのようだった。
それでも光を受ける銀色は磨き上げられた水晶みたいな輝きを放ち、朝の演出が伴った容姿は微睡に戻されるが如く、見る者の心を打つ。
「……お、おはよう」
どことなく様子がぎこちないのは何故だろうか……?
そんなことを思い、すぐに首を振る。
疑問に思う方がおかしいのだ。むしろこれは普通の反応といえる。
何しろ俺たちは昨晩……ほぼ初対面の状態から同棲することが決まってしまったのだから。
「おはよう。よく寝れたか?」
更には一晩を共にしている。
男と女が同じ屋根の下で眠る、R指定の夜だ。
まるで新婚さんではないかと疑われるハート型ピンクなシチュエーションだが、
「……寝れるワケ、ないじゃん」
「へえ?」
少女は怒気を含んだセリフで、ゆっくりと俺に横顔を向けた。
「見ろよ、ここ……超跡ついてる」
と、そうして指差すのはミルク色の頬。
「全身痛いし、逆に疲れた……」
……ふむ。
確かにそこには線路のような迷路のような……フローリングの床をレイヤーで重ねたかのようなボディアートがくっきりと刻まれている。
年頃の女性ならみんな化粧くらいはするんだろうが、これをメイクと決め付けるのは早計だろう。適切とはあまりにも言い難い。
では一体、どうやればこんな珍奇なオシャレが完成するのか。
「だろうな」
考えるまでもなかった。
そりゃ顔を床に押し付けて寝る他にあるまいよ。
「……わたし客じゃん。なにこの扱い。なんでおまえが、その……ベッド? っていうやつ使ってんの?」
不満を露わにふかふかを一瞥する少女。
俺が占領した、たった一つの寝台。
床で夜を過ごしたそいつは、羨ましそうに唇を噛んだ。
「なんでって……俺のだし?」
「知ってるよ! でも、そっちわたしだろ!」
「はは」俺は笑った。
「笑わせんな、ボロクズ」
そして睨みつける。
憎しみだの嫌悪だのを込めて眼光を投射。
もしも俺の体にサイドワインダーが搭載されていたらば今頃ヤツは粉になっていただろう。
正常な人間であったことが裏目に出た。来世では機械人形になろう。
「貸せよ!」
「死ね」
マジふざけんな、と。
つまらん勝手を抜かしやがって。
これは愛し愛されての同棲じゃねえのだ。ラブなんざこれっぽっちもねえ。
この女――――ルル――――は、昨日の災厄により我が「浅葉家」の住人となった“居候”である。
居候がベッド? 馬鹿か、千年早い。
要求することも許されんぞ。奴隷が玉座に腰をおろすようなもんだ。末代までギロチン刑に処されるだろう。
「へっくち……っ!」
本来ならば少女の言動は万死に値するが、断罪してしまうと不都合が生じる。
まったく、社会とは世知辛い。
こういう次元の苦労を一学生がしてよいものかと思い、俺は深く溜息を吐いた。
「ああ寒い……全然泊まった気がしないよ……」
顔色の悪い少女ルルは、膝まで届こうかというサイズ違いのシャツをぐっぐっと下に引っ張った。
上半身を守るために作られたブツで下半身も助けてもらおうとはおこがましい。が、気持ちはわからなくもない。
シャツは乱れていた。
乱れているどころか、破れていた。
「くっそ……伸びない……」
ビジュアル系の衣装でもイメージさせるそれは、三日前まで俺の防具だったモノだ。
急遽ウチに宿泊する事となった少女は、己が身一つ(ヌード)で浴槽に浮かんでいた為「こりゃさすがに道徳とか倫理的にまずいだろう……」と判断した俺が、雑巾にミラクルチェンジしようと思っていたこれまた三日前にルル自身が引き裂いたシャツを仕方なく贈呈してやったのだ。
「うが、今またビリって……ッ!」
現在そのシャツは、シャツとしての機能をほとんど果たしていない。
服を着ているのに視覚的、体感的に肌の面積の方が広いのだ。
領土問題の起こった大地は若き男子の脳を刺激するのに容易と言えよう。
「……はぁ」
ルルはふとももを擦ってなんとか体温を上げようと努力した。
仮にも家の中だというのに…………下着を装備していないせいか?
いや、でもな。
俺は女物の下着なぞ持っとらん。
当然だ。俺は男だ。
故に少女がシャツ単騎になるのは止むを得んだろうて。
どうしても欲しいならお泊りセットを持って来い。
マジで。本当にさ。
手ぶらとか、マジあり得ないから。
「……憶えてろよ、アサバ」
「なにをだ」
「なにも、かも」
漠然とした糾弾を吐いて首を垂れた。
泊らせてもらった上に服まで頂戴して、よくそんなことが言えるよな。この恩知らず。
履歴書はOKでもバイト先の面接で落ちるタイプだ、絶対。
「ん……ぱお、ぶわっ!?」
俺はルルに台ふきんを投げつけた。
「……つ、冷たぁ」
水分を含んだふきんはなかなかの音を立てて、ルルの鎖骨に直撃する。
「テーブル拭いてこいよ、ダボハゼ」
働かざるもの食うべからず。
いかなる時代も無銭飲食を許しちゃならんぜよ。
「乱暴すんな!」
ギャアギャアとうるせえチビが。
「寒いって言ってんだろーガーっ!!」
叫びながら白い生足をぶるぶると微動させる。
両手で摩擦熱を起こそうと屈んだことで、服と胸の間にちょっとした隙間が出来た。
「む?」
その狭きスペースに、乳の丘がチラリズム。
「………………………………」
……なんつーか、無防備だな。現代人のくせに。
普通、これほどナチュラルに異性との関係を無視できるもんかね?
もうちょっと恥じらってもいいだろ。女として。
それともなにか。これは挑発なのか。
ガードを拒否する以上、攻撃には自信があるってことか? いやいや、どんなに自信があっても防御はすべきだ。そもそも美しい作りこそしているが、少女の体型はあくまでも少女である。決してグラマーではないし、アピールポイントとしてはまだまだ未熟だろう。
ならその自信はどこから来るのだ。
もしかして、俺になら通用すると思っているのか?
俺がこのゴミカスに誘惑されると。
誘惑され、自分に夢中になるだろうと。本気で思っているのか……?
バカな。
甘く見てもらっては困る。
むしろ腹立たしいわ。格闘ゲームの世界だったら完全に舐めプレイだぞ。
「おうこら、舐めんなよ」
眉間にしわを寄せてルルを威嚇する。
犬はコミュニティーの中で序列を作ると聞くからな。
ケモノ的な少女がクソみてえなヒエラルキーを築いても困る。
この家で一番偉いのは俺だ。
次に素晴らしいのがハーブ。
そして底辺でネズミ、ゴキブリ、ダニ、ムカデたちが己の体液を流して争う。
「最後がお前だ」
「……わけわからん」
ルルの口調は生意気だった。
なにこの人、ちょーキモいんですけど~的な。
そういうギャル語リズム。
「癇に障るメス野郎が」
「わたしは一体、男なのか女なのか……」
いつもの俺ならこの瞬間に七回くらいは蹴りを入れていただろう。
黒服さえいなければ……この行動に制限は掛からなかったのに。
ったく。
お邪魔なバックボーンが予想以上に鬱陶しいぜ。

「なあ。ところでそれって、ごはん?」
シャツで濡れた部分を拭きながら、ルルはトーストを指差した。
「食えんの?」
失礼な。俺のメシが残飯だとでも申すか。
「んまそうな……匂い?」
「おい、いいからさっさとテーブル綺麗にしてこいよ」
「ね、こっちは?」
「あん? こっちって……おまえコーヒーも知らねえのか。どんだけ劣悪な環境で育ったんだよ、人間もぐり」
「変なニオイ」
「キルすんぞ」
「アサバこれ、好きなの?」
「地球人の朝は必ずこれなんだ。赤ん坊にとっての母乳と同じ。飲んでないのは世界中でおまえだけ」
「嘘つき」
「俺がおまえに嘘ついちゃいけねえ道理でもあんのかよ」
「意味わかんないけど」
「女はすぐそれだ。言われたことの意味を考えようともしない」
「はぁ……やっぱり意味わかんないや」
会話を諦めたのか、ルルはそこで言葉を切って、テーブルへと向かっていった。
俺としても話がしたいわけではないので、そうしたスイッチが早めに出ることはありがたい。
「チッ……」
空虚ではあるが。
我々の関係はドライなのだ。
寝食を共にする条件こそあれど、そこで親和を図る必要はない。
理解しなくていい。
されなくてもいい。
そういう交渉だったのだから、こちらはそれに徹するべきだろう。
「…………取り引き、ね」
呟いて外を眺める。
春風の吹く、午前の景色。
どこかから……猫の鳴き声が聞こえた。
お帰りなさい
そうして足早に帰宅した俺はアパートの階段を上って(この際に二十数回打ち付けた少女の頭部については不問とする)二階の角部屋に駆け込んだ。我が家である。
ここまで運良く誰にも見られなかったが、そもそも隠れなくてはならない理由が最低なので運がどうこう言うのは間違っているだろう。
玄関で靴を脱ぎ捨てて風呂場へ。
お湯の温度を50℃にして沸かすと浴室に煙が渦巻いた。
「おえっ、なんだこりゃ。ひでえな……」
密室になったせいか少女の容赦ない体臭がそこら中に漂った。
クサい。
強烈に。
それは鼻を摘んだところで無視出来るものではなかった。
例えば“少女の香り”とでも表現すれば何やら淫猥な響きもするのだが、これではいつ隣の住民が苦情を言いに来てもおかしくないし、次の瞬間には俺が中毒死しているかも知れない。レポーターがテレビの前の奥様方にこの臭いを伝えるとしたらどう表現するだろう? 漬物を食わせた牛の口内とでも言ったら、多少はわかっていただけるかもわからん。
「…………」
少女は沈黙したまま、どこか安らかな表情で目を閉じていた。
こちらの気も知らないで……それはすやすやと眠っているだけにも見えた。
「……とにかく、封印を解かないとな」
締められた部分の血が止まって、その先の感覚を地味に失っている。
俺は片足を浴槽に突っ込んでは傍にあったラバーカップでそいつの体を底に沈めた。
「ぐお、あちち……」
灼熱の業火。さながら肉料理。
湯に触れた少女の体から赤紫色の液体が流れ出した。体液だろうか? ふと理科の実験を思い出す。こいつも、アルカリ性か。
「お、ちょっと緩くなってきたな」
ラバーカップを丁寧に使う。
長方形の空間にカップのギュポギュポという音が反響した。
臓物にマッサージしているみたいだな。事実、どこかの肉を吸い込んでいるのだろう。そう考えると幾分か気持ち悪いが……なあに、ハンバーグを作っていると思えばなんてことはない。料理とはだいたいにおいて残酷な一面を持つ。人類を探求心の強い悪食家だと言い切ってしまえば、どんな具材だって問題はないはずだ。
もっとも。俺はこれを食うつもりはないし、こんなこと二度やりたいとは思わんのだが。

――――五分くらい経ったろう。
それだけ待つと鎖のような腕はいい具合に解れて、また俺の足、延いては少女の体がゆでダコみたいに真っ赤に染まった。
最後のつもりでもう一度少女を湯船の底に押し付ける。
今更ながらに思うが……えら呼吸でもない限り、こいつ確実に死んだよな。いや、死んでたんだけどな。俺のせいじゃない。そうだろ? だから何をしたって平気である。多少の後ろめたさは死人に鞭を打った結果の必要経費ってやつさ。
浴槽からゆっくり片足を引き上げると、俺の大切なパーツはようやくリリースされた。
除霊完了。
「やれやれ……」
目下の溺死体を眺めながらタオルを取って拭く。
とりあえずは助かったが、これの処理を考えると頭が痛い。もちろん俺は悪くないけれども、客観的に見てその不憫さを理解してくれる人間がどのくらい居るかはわからない。陪審制に向けて今から泣き顔の練習をしておくべきか。否、裁判に呼ばれること自体が不服なのだ。そんな未来を想定するな。
すぐに良い方法が見つかる気もしなかったので、一時少女は放置してリビングへ。
学生が一人で住むにはなかなかに広いマイ・ハウス。
少し軋むフローリングの床、灰色っぽい天井。壁と壁の間隔は遠く、おそらく家具さえ退ければ三、四人程度は大の字で寝ることが出来るだろう。
もしかすると建設当初はとても学生には払えない額の家賃を取っていたのかも知れない。老朽化が進み、近隣からボロアパートなる称号を得るまでにどれだけの時間を要したのか。外壁に残る刀傷がその手掛かりになるかもわからんが、特に調べるつもりはなかった。住むことさえ出来れば、あとはどうでもいい。
少し服を楽にしてキッチンで水を汲む。一杯飲むと自分の喉がカラカラであったことに気が付いた。
三回続けて、今度は霧吹きに水を溜める。これはベランダに作った小さな庭、ハーブたちのご飯である。
もともとは節約の為に始めた実用的な趣味だったが、今ではその魅力に取り憑かれ、彼らの世話をすることに幸せすら感じていた。
「ほら、召し上がれ。ククク……しっかり育てよ」
シャワーを浴びた土がどんどん湿っていく。
気持ち良さそうだ。早く育てばいい。葉が増えれば増えるほど食卓が豪華になるのだ。それは素晴らしいテーブルに違いないぞ。近いうちに野菜も始めようか。おお……考えるだけでワクワクする。興奮に心が躍った。
室外から室内へと移り、日陰に置いたパセリにも水をやる。こいつは最近蒔いたものなので、本当に発芽が楽しみだ。
こうした行いに治癒効果を望めることは殺伐とした俺の生活に潤いをもたらしてくれた。育てて良し、食べて良しのハーブたちにはいくら感謝しても足りないくらいである。
何故かそうした様子の俺を見る視線はトゲだか針のように鋭いのだが……まあ、他人の目なぞ放っておけ。俺の喜びは俺だけのものだからな。誰かと共有する気はさらさらない。
「よし、こんなもんか」
満足して背筋を伸ばすと骨がポキポキと鳴った。
なんとなく疲弊した体は回復の兆しに向かっていたが、もちろん懸案事項を忘れたワケではない。
チラ、と風呂場の方を見やる。
「…………」
深い溜息が、俺の心を苛んだ。
さて……どうすべきか。否、答えは出ている。やはり捨てるしかないだろう。
だが一つ確認しておきたい。これは「死体遺棄なぞでは断じてない」ということを。
何度も繰り返しているが、奴は俺が原因でオダブツしたのではなく、あくまで自然の摂理に則って死んだのである。勝手なのだ。故に俺が少女をどこにポイ捨てしようと、それは野にあるものを野に返した、ただそれだけのことであって、俺が責められる理由はまったくない。
しかし……と俺は顎を撫でる。
最良の方法がどうにも思い付かなかった。
墓のない死体が辿り着く場所とはどこだろう? 樹海、或いは東京湾か……どちらにしても簡単にはいくまい。いっそ野犬に食わせるか。俺はまだ見ていないが、最近この辺りには出ると聞く。それに「犬の中の密室」と言うとなんだか完全犯罪っぽい印象を受けるじゃないか。胃袋には何者も踏み入ることが出来ず、また生きて出ることも叶わない。形状的に、ボトルシップの船上で起きた殺人事件みたいなもんだ。わーお……おいおい、こりゃ本当に迷宮入りしそうだぞワトスン。今のうちにブランデーでも垂らして味付けしておくべきかも知れないなっ!
「あー、くだらねぇ……」
肩を落とした。
もはや冗談で片付けられる場面ではないのだと平和だった日常が叫んでいる。
俺はポケットに手を入れて、思い出したようにケータイを掴んだ。
誰かに救いを請いたい。
現状を打破できるのなら誰でもいい。
が、すぐにそんな有益な連絡先はインプットされていないのだと思い首を振った。
そもそも俺には友達が少ない。アドレス交換をしている相手ともなると、その数は十を超えないだろう。
「はは、まったく……」
悔しさに、苦笑が漏れた。
軽く足のマッサージをしていると腹が鳴った。
「……そういえば夕飯がまだだったな」
心身ボロボロになりながらも台所に立つ。
一人暮らしを始めた頃は賞味期限切れのコンビニ弁当で済ませていたが、半年も経つと下手なりに自炊するようになった。まだまだ難しいことは出来ないが普通に食えるくらいの物なら作れる。
冷蔵庫にキャベツやらニンジンが残っていたので、ちゃちゃっと炒めて簡単に済ませてしまおうとした――――その刹那。
「お?」
チャイムの音が、部屋に鳴り響いた。
誰だろう。
夜の来訪とは珍しい。
大家か? いや、今月の家賃は既に払っている筈だし、夜も遅い。
再びチャイムが鳴る。
習慣的に俺の足は玄関まで進んだ。
ドアノブを捻ろうとして思い止まる。
果たして、開けて良いものか。
「…………」
唾を飲み込む。
よく考えろ。
これっぽっちだって認めたくはないことだが……今この家の浴室には変死した少女が裸で浮かんでいる。他人を部屋に上げることは俺にとって危険を増大させるファクターにしかならないのではないか……? それは向こう側にいる相手が誰であろうと、おそらく変わらないだろう。第一に、そいつが警官である可能性も否定できない。
警官。
……弱ったな。結構ドキドキしてる。
「無視だ」
一先ず居留守を選択した。
あまり特技を持たない俺だが、入居一年で様々な猛者をシカトしてきた。したがってこればかりは得意である。時代が時代なら忍びとして活躍できたかもわからんんね。風車の弥七とはいい酒が飲めそうだと常々思っているくらいだ。
三度目のチャイムが鳴った。
俺はさながらムーンウォークの足取りで後退する。
さらば、どこぞの誰か。何の用件かは知らんが、面倒だから二度と来るんじゃねえぞ。
そんなことを呟きながら扉から一メートル程度離れた頃だった。
突如、俺の目玉が空間的に数ミリほど前方に突き出た。
極度に驚いた時の顔である。さも珍妙な表情に違いない。眼球が乾いて痛かった。今年は花粉が多いと聞くし、このままだと目薬を買いに行く羽目になるだろう。
これらの不幸はすべて連鎖である。
それはひょんなことから始まるくせに、鎖を辿れば地獄の底にまで続いている、禍々しい連鎖。
……例えば人気のない道で裸の少女と肩をぶつけてしまった場合、その代償として少女を家に連れ帰らなければならなくなる。では家に連れ帰ったらどうなるかというと、部屋は悪臭で満たされ、立っているのも億劫なのに後処理をどうするかで長い時間悩まされる事になるワケだ。更に悩んでいる内に見知らぬ誰かが訪ねてくる。お前らは、誰だ? ……例えばそれは開錠にキーを必要としない無数の男たちである。
「え……」
謎めいたスーツ姿の彼らはアパートの廊下に所狭しと並び、さも当たり前といった表情で俺に拳銃を向けていた。

「手を上げろ」
――――銃口から上がる煙を目にして、俺は鍵穴を撃ち抜かれた事実を知った。
映画のワンシーンみたいだが、決して俺は銀幕に出るような人間ではない。
とにもかくにもこちらの意思とは正反対に、板切れと化した扉は自動的に開いて、ついには招かれざる客を「大歓迎」という風にして呼び込んでしまうに至った。
「…………」
黒い海の中で大柄な男が一人、猛獣染みた声で言う。
「さもなくば撃ち殺す」
……俺は自分の脳みそがバターみたいに溶けていく錯覚に襲われた。
ここまで運良く誰にも見られなかったが、そもそも隠れなくてはならない理由が最低なので運がどうこう言うのは間違っているだろう。
玄関で靴を脱ぎ捨てて風呂場へ。
お湯の温度を50℃にして沸かすと浴室に煙が渦巻いた。
「おえっ、なんだこりゃ。ひでえな……」
密室になったせいか少女の容赦ない体臭がそこら中に漂った。
クサい。
強烈に。
それは鼻を摘んだところで無視出来るものではなかった。
例えば“少女の香り”とでも表現すれば何やら淫猥な響きもするのだが、これではいつ隣の住民が苦情を言いに来てもおかしくないし、次の瞬間には俺が中毒死しているかも知れない。レポーターがテレビの前の奥様方にこの臭いを伝えるとしたらどう表現するだろう? 漬物を食わせた牛の口内とでも言ったら、多少はわかっていただけるかもわからん。
「…………」
少女は沈黙したまま、どこか安らかな表情で目を閉じていた。
こちらの気も知らないで……それはすやすやと眠っているだけにも見えた。
「……とにかく、封印を解かないとな」
締められた部分の血が止まって、その先の感覚を地味に失っている。
俺は片足を浴槽に突っ込んでは傍にあったラバーカップでそいつの体を底に沈めた。
「ぐお、あちち……」
灼熱の業火。さながら肉料理。
湯に触れた少女の体から赤紫色の液体が流れ出した。体液だろうか? ふと理科の実験を思い出す。こいつも、アルカリ性か。
「お、ちょっと緩くなってきたな」
ラバーカップを丁寧に使う。
長方形の空間にカップのギュポギュポという音が反響した。
臓物にマッサージしているみたいだな。事実、どこかの肉を吸い込んでいるのだろう。そう考えると幾分か気持ち悪いが……なあに、ハンバーグを作っていると思えばなんてことはない。料理とはだいたいにおいて残酷な一面を持つ。人類を探求心の強い悪食家だと言い切ってしまえば、どんな具材だって問題はないはずだ。
もっとも。俺はこれを食うつもりはないし、こんなこと二度やりたいとは思わんのだが。

――――五分くらい経ったろう。
それだけ待つと鎖のような腕はいい具合に解れて、また俺の足、延いては少女の体がゆでダコみたいに真っ赤に染まった。
最後のつもりでもう一度少女を湯船の底に押し付ける。
今更ながらに思うが……えら呼吸でもない限り、こいつ確実に死んだよな。いや、死んでたんだけどな。俺のせいじゃない。そうだろ? だから何をしたって平気である。多少の後ろめたさは死人に鞭を打った結果の必要経費ってやつさ。
浴槽からゆっくり片足を引き上げると、俺の大切なパーツはようやくリリースされた。
除霊完了。
「やれやれ……」
目下の溺死体を眺めながらタオルを取って拭く。
とりあえずは助かったが、これの処理を考えると頭が痛い。もちろん俺は悪くないけれども、客観的に見てその不憫さを理解してくれる人間がどのくらい居るかはわからない。陪審制に向けて今から泣き顔の練習をしておくべきか。否、裁判に呼ばれること自体が不服なのだ。そんな未来を想定するな。
すぐに良い方法が見つかる気もしなかったので、一時少女は放置してリビングへ。
学生が一人で住むにはなかなかに広いマイ・ハウス。
少し軋むフローリングの床、灰色っぽい天井。壁と壁の間隔は遠く、おそらく家具さえ退ければ三、四人程度は大の字で寝ることが出来るだろう。
もしかすると建設当初はとても学生には払えない額の家賃を取っていたのかも知れない。老朽化が進み、近隣からボロアパートなる称号を得るまでにどれだけの時間を要したのか。外壁に残る刀傷がその手掛かりになるかもわからんが、特に調べるつもりはなかった。住むことさえ出来れば、あとはどうでもいい。
少し服を楽にしてキッチンで水を汲む。一杯飲むと自分の喉がカラカラであったことに気が付いた。
三回続けて、今度は霧吹きに水を溜める。これはベランダに作った小さな庭、ハーブたちのご飯である。
もともとは節約の為に始めた実用的な趣味だったが、今ではその魅力に取り憑かれ、彼らの世話をすることに幸せすら感じていた。
「ほら、召し上がれ。ククク……しっかり育てよ」
シャワーを浴びた土がどんどん湿っていく。
気持ち良さそうだ。早く育てばいい。葉が増えれば増えるほど食卓が豪華になるのだ。それは素晴らしいテーブルに違いないぞ。近いうちに野菜も始めようか。おお……考えるだけでワクワクする。興奮に心が躍った。
室外から室内へと移り、日陰に置いたパセリにも水をやる。こいつは最近蒔いたものなので、本当に発芽が楽しみだ。
こうした行いに治癒効果を望めることは殺伐とした俺の生活に潤いをもたらしてくれた。育てて良し、食べて良しのハーブたちにはいくら感謝しても足りないくらいである。
何故かそうした様子の俺を見る視線はトゲだか針のように鋭いのだが……まあ、他人の目なぞ放っておけ。俺の喜びは俺だけのものだからな。誰かと共有する気はさらさらない。
「よし、こんなもんか」
満足して背筋を伸ばすと骨がポキポキと鳴った。
なんとなく疲弊した体は回復の兆しに向かっていたが、もちろん懸案事項を忘れたワケではない。
チラ、と風呂場の方を見やる。
「…………」
深い溜息が、俺の心を苛んだ。
さて……どうすべきか。否、答えは出ている。やはり捨てるしかないだろう。
だが一つ確認しておきたい。これは「死体遺棄なぞでは断じてない」ということを。
何度も繰り返しているが、奴は俺が原因でオダブツしたのではなく、あくまで自然の摂理に則って死んだのである。勝手なのだ。故に俺が少女をどこにポイ捨てしようと、それは野にあるものを野に返した、ただそれだけのことであって、俺が責められる理由はまったくない。
しかし……と俺は顎を撫でる。
最良の方法がどうにも思い付かなかった。
墓のない死体が辿り着く場所とはどこだろう? 樹海、或いは東京湾か……どちらにしても簡単にはいくまい。いっそ野犬に食わせるか。俺はまだ見ていないが、最近この辺りには出ると聞く。それに「犬の中の密室」と言うとなんだか完全犯罪っぽい印象を受けるじゃないか。胃袋には何者も踏み入ることが出来ず、また生きて出ることも叶わない。形状的に、ボトルシップの船上で起きた殺人事件みたいなもんだ。わーお……おいおい、こりゃ本当に迷宮入りしそうだぞワトスン。今のうちにブランデーでも垂らして味付けしておくべきかも知れないなっ!
「あー、くだらねぇ……」
肩を落とした。
もはや冗談で片付けられる場面ではないのだと平和だった日常が叫んでいる。
俺はポケットに手を入れて、思い出したようにケータイを掴んだ。
誰かに救いを請いたい。
現状を打破できるのなら誰でもいい。
が、すぐにそんな有益な連絡先はインプットされていないのだと思い首を振った。
そもそも俺には友達が少ない。アドレス交換をしている相手ともなると、その数は十を超えないだろう。
「はは、まったく……」
悔しさに、苦笑が漏れた。
軽く足のマッサージをしていると腹が鳴った。
「……そういえば夕飯がまだだったな」
心身ボロボロになりながらも台所に立つ。
一人暮らしを始めた頃は賞味期限切れのコンビニ弁当で済ませていたが、半年も経つと下手なりに自炊するようになった。まだまだ難しいことは出来ないが普通に食えるくらいの物なら作れる。
冷蔵庫にキャベツやらニンジンが残っていたので、ちゃちゃっと炒めて簡単に済ませてしまおうとした――――その刹那。
「お?」
チャイムの音が、部屋に鳴り響いた。
誰だろう。
夜の来訪とは珍しい。
大家か? いや、今月の家賃は既に払っている筈だし、夜も遅い。
再びチャイムが鳴る。
習慣的に俺の足は玄関まで進んだ。
ドアノブを捻ろうとして思い止まる。
果たして、開けて良いものか。
「…………」
唾を飲み込む。
よく考えろ。
これっぽっちだって認めたくはないことだが……今この家の浴室には変死した少女が裸で浮かんでいる。他人を部屋に上げることは俺にとって危険を増大させるファクターにしかならないのではないか……? それは向こう側にいる相手が誰であろうと、おそらく変わらないだろう。第一に、そいつが警官である可能性も否定できない。
警官。
……弱ったな。結構ドキドキしてる。
「無視だ」
一先ず居留守を選択した。
あまり特技を持たない俺だが、入居一年で様々な猛者をシカトしてきた。したがってこればかりは得意である。時代が時代なら忍びとして活躍できたかもわからんんね。風車の弥七とはいい酒が飲めそうだと常々思っているくらいだ。
三度目のチャイムが鳴った。
俺はさながらムーンウォークの足取りで後退する。
さらば、どこぞの誰か。何の用件かは知らんが、面倒だから二度と来るんじゃねえぞ。
そんなことを呟きながら扉から一メートル程度離れた頃だった。
突如、俺の目玉が空間的に数ミリほど前方に突き出た。
極度に驚いた時の顔である。さも珍妙な表情に違いない。眼球が乾いて痛かった。今年は花粉が多いと聞くし、このままだと目薬を買いに行く羽目になるだろう。
これらの不幸はすべて連鎖である。
それはひょんなことから始まるくせに、鎖を辿れば地獄の底にまで続いている、禍々しい連鎖。
……例えば人気のない道で裸の少女と肩をぶつけてしまった場合、その代償として少女を家に連れ帰らなければならなくなる。では家に連れ帰ったらどうなるかというと、部屋は悪臭で満たされ、立っているのも億劫なのに後処理をどうするかで長い時間悩まされる事になるワケだ。更に悩んでいる内に見知らぬ誰かが訪ねてくる。お前らは、誰だ? ……例えばそれは開錠にキーを必要としない無数の男たちである。
「え……」
謎めいたスーツ姿の彼らはアパートの廊下に所狭しと並び、さも当たり前といった表情で俺に拳銃を向けていた。

「手を上げろ」
――――銃口から上がる煙を目にして、俺は鍵穴を撃ち抜かれた事実を知った。
映画のワンシーンみたいだが、決して俺は銀幕に出るような人間ではない。
とにもかくにもこちらの意思とは正反対に、板切れと化した扉は自動的に開いて、ついには招かれざる客を「大歓迎」という風にして呼び込んでしまうに至った。
「…………」
黒い海の中で大柄な男が一人、猛獣染みた声で言う。
「さもなくば撃ち殺す」
……俺は自分の脳みそがバターみたいに溶けていく錯覚に襲われた。
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